案内板設置完了

案内板設置完了

地域の方々、子供達、賢治ファンのために、これまで20枚の案内板を設置し、今回3枚の案内板を追加し、概ね完了しました。米里の地域の方々、米里を訪れる賢治ファンの方々にとって賢治作品の追体験ができる環境ができたと思います。
五輪峠には「賢治の歩いた峠道」を、人首町には「人首町」「人首町下書き稿」をそれぞれ設置しまた。五輪峠は蛇紋岩の岩山で、設置のための穴掘りには苦労しました。佐伯研二氏、千田義一氏、ご協力いただいたケンナンサインさん、ありがとうございました!

案内板設置『賢治の歩いた峠道』

案内板設置完了
五輪街道は、宮沢賢治の歩いた江刺郡の旧街道(黒石・気仙・盛)の中で、最も当時の景観を残している道筋です。特に、この五輪峠から北新田までの峠道は、その後の道路開発からも逃れ、ほんど昔のままの状態が残っています。
今では地元住民にも忘れ去られようとしていますが、明治元年には本州で一番最初にロシア正教を人首番所で説いたという澤邊琢磨(坂本龍馬の従兄弟)や、同三十九年には高名な俳人河東碧梧桐、またその後の大正九年八月に柳田國男などが、この峠を上って遠野に向かいます。さらに、柳田に『遠野物語』の原形を伝えた佐々木喜善は、大正十一年二月に、遠野側からこの峠を下り、江刺郡の徒歩旅行をしていますが、その時の体験は、後に刊行された『江刺郡昔話』(大正十一年八月刊行)の中で、『江刺を歩き』と題し、表されています。
賢治が初めて五輪峠を訪れたのは、大正六年九月の江刺郡の地質調査時です。同行した友人の高橋は、賢治が「五輪峠では、蛇紋岩脈にハンマーを打ち入れ転び散る岩片を拾い乍ら、ホーホー二十年万年もの間陽の目を見ずに居たので、みんな驚いていると叫んでいた。」と述べていますが、現在も峠道の処所で、それと同じように露出した蛇紋岩体に出会うことができます。

案内板設置完了
賢治が二度目に五輪峠を訪れたのは、大正十三年三月です。その時は、現在の釜石線の鱒沢駅 で下車し、鮎貝~切伏~五輪峠を経て、人首町へ向かったことが推定されます。特に、五輪峠から人首町への行程は、第二詩集の『春と修羅』に収められた『五輪峠』「丘陵地を過ぎる」「人首町」等の連作から想像できます。現在もその道筋を辿ると、それらの詩に、描かれた情景がつぶさに浮かんできて、数少ない追体験のできる貴重な空間ともなっているのです。

賢治街道を歩く会

「人首町」 宮沢賢治 1924年3月25日
雪や雑木にあさひがふり
丘のはざまのいっぽん町は
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