第1回ふるさと講座

「ひょっとこ」の由来について
【講 師】菊池明朗

昭和二十五年七月五日発行の文部省検定済教科書「中等国語三下」三省堂(編集委員長 金田一京助)の五十五ページから七十ページにかけて ひょっとこの由来(放送劇)が掲載されている。この教科書は米里中学校で昭和二十六年度まで使用されていた。放送劇として書かれている文章の一部を紹介すると

解説者A ところで皆さんは、この「ひょっとこ」という言葉はどういう意味なのか、ひょっとこのお面は何をかたどったものか、そしてあれがどうゆう縁起をもつものか、御存じですか。おそらく御存じのないかたが多いことと思います。実は、「ひょっとこ」の由来は、長いこと学会のなぞだったのですが、ふとした機会に、佐々木喜善(きよし)さんという、地方の若い民俗学者の手によって明らかにされたのです。~略~

解説者A 大正十年の冬のこと、佐々木喜善さんは、岩手県江刺郡の米里村という山里を歩いておりました。江刺郡米里村と言っても御存じのないかたが多いことと思いますが、江刺郡は、日本の中でまだ鉄道の通じてない郡の一つだ、と申しましたら、だいたいどんな所か、御想像いたゞけると思います。~以下略~
この教科書で学んでいた長野県と茨城県の中学校の生徒から米里村役場に手紙が届いた。手紙の内容は、今も炉端近くの大黒柱にひょっとこ面を吊り下げている農家があるのか、あったら写真を撮って送ってほしい。写真が無理ならひょっとこ面に付着している煤を紙に付けて送ってほしいとの内容だったという。この件は村役場教育委員会担当であった私の父正助が応対することになり、早速、野里向の後藤利蔵翁を訪ねて聞き取り、より詳しく、かつ正確に書き残した。両中学生には調査後詳しく書いた手紙を送ったという。その後両中学生と父正助は年賀状の親交が続いた。茨城の中学生は矢満田氏で向平戸の我が家に二度訪ねて来た。偶然にも筆者の私も一度会ったことがある。

「ひょっとこ」の由来
江刺市米里字向平当五七
千田正助

不思議なほら穴

昭和三十三年十一月三日県下で第十二番目の市として発足した江刺も、米里地方はその昔はどこを見ても大きな森林でした。

この地方のあるところに婆さんと二人暮らしの、人のよい木こりの爺さんがおりました。
ある日爺さんはいつもの様に山へ柴刈りに行きました。一仕事終えてちょっと腰をのばした爺さんは、ふと傍らの地面に直径二尺位の洞穴のあるのを見つけました。なかをのぞいて見ると真暗で奥が見えません。爺さんは「何か出て来そうな気味の悪い洞穴だ」と思いながら叉仕事を続けて居りました。
しかし、どうしても気にかかるのでいっそのことこれをふさいでしまおうと思ってあたりを見廻しましたが、何も適当なものが見当たりません。やっと思いついたのは爺さんが伐った柴束でした。
爺さんは早速一束抱えて来てその穴口にあてがいました。すると不思議や柴束は、スーッと吸い込まれる様に中に入ってしまいました。これはおかしいと中をのぞいて見ますと、やはり中は真暗で何も見えません。爺さんはまた一束抱えて来て、穴口にあてがいました。するとまた柴束はスーッと中に入ってしまいました。何とかしてふさいでしまおうと思った爺さんは、後から後から柴束を運んで穴口にあてがいましたが、どの柴束もみんなスーッと中に入ってしまいました。
気がついたときには、三ヵ月分ばかりの柴束は、一つも残らず穴の中に消えていました。もう既に夕方近くになり、爺さんは家に帰らなければならないのにカチ荷(帰りの荷)の柴は、一束も残っていませんでした。
爺さんは「つまらないことをした」とブツブツ一人ごとを言いながら、カチ荷の柴束を伐りはじめました。

白髪の翁と娘

ちよつと手を休めた爺さんがふと頭をあげると、どこから来たのか十八、九の美しい娘が爺さんの目の前に立っていました。びつくりした爺さんは二、三歩退いて、もう一度娘の顔を見直しました。娘はにっこりして「私はこの洞穴の邸やしきの娘です。先程は柴をいただいて有難うございました。是非私の家に来て下さい。父が待って居ります。この風呂敷に乗ればすぐ私の家に行くことが出来ます。」と言いながら小さいきれいな風呂敷を広げました。
爺さんは「これこそこの穴に住んでいる狐か狸に違いない。だまされてなるものか。」と思って柴刈り鎌を持ち直すと共に、試しに自分の頬ほほを指でつねって見ました。
急に恐ろしくなった爺さんは、すぐに道具を抱えて家に帰ろうとしました。娘は慌てて「まあまあ」と爺さんの袖をとらえ「決して怪しい者ではありません是非、私の家にお出で下さい。父がお礼に待って居ります。」とすすめます。
そのうちに爺さんは、広げていた風呂敷にすっぽりと包まれてしまいました。
気がついて見ると爺さんは、洞穴の中の立派な邸の前に立っていました。本当に立派な建物です。話に聞いた竜宮とは、このことではないかと思いました。家の前には、沢山の柴束が山の様に積み重ねてあります。それは爺さんが洞穴をふさごうとして全部入れてしまった柴束でした。
娘の案内で邸内に入りますと中も大変きれいで風采の立派な白髪の翁が座敷の正面にすわって居りました。男女の召使も大勢居てとても賑にぎやかです。翁はポカンと立つて眺めて居る爺さんをにこやかに迎えて「さあさあ」と座敷に招き入れました。そして丁寧に柴束の礼を述べた後「どうぞゆっくり休んで行って下さい。」と言い、爺さんの前に沢山のご馳走を運ばせました。
持って来たご馳走は、それこそ爺さんの見たことも聞いた事もない、山海の珍味でした。

ヘソをいじる子供

それから何時間経ったのか何日経ったかわかりませんでした。爺さんはもてなされるままに我を忘れて居りましたが、ふと家に残して来た婆さんを思い出して急に家へ帰りたくなりました。爺さんは早速暇乞いとまごいをしました。
翁や娘は大そう別れを惜しんで「もう少し居て下さい」と何度も引きとめましたが、爺さんは「家には婆さん一人で子供もないのだからどうしても帰らなければなりません。」と強く断りました。
翁は「それでは仕方がありません。爺さんに子供がないのなら、お礼のしるしとしてよい子供を上げましょう。」と言いながら、早速小さな子供をつれて来させました。つれて来た子供を見て爺さんはびっくりしました。何とみっともない顔でしよう。色は真っ黒、おでこは高く、眼はびっこ、鼻は低くて片曲がり、おまけに横っちょを向いています。腹がふくれて脚が短く、歩き方も変わっている。
そして、両手でヘソばかりいじっています。こんな子供を連れて帰って婆さんに何と言われるかわかりません。爺さんは呆れて「折角ですが……」と断りかけました。すると翁は「とてもよい子供ですから是非連れて行って下さい、決して悪い子供ではありません。」とすすめます。そのうちに子供も「爺さん、爺さん」と腰にしがみついて離れません。仕方がないので爺さんはその子供を貰って帰ることにしました。
洞穴の入口まで娘に送って貰った爺さんは、子供を連れて家に帰りました。
果して婆さんは帰りの遅い爺さんを、ブツブツこぼしながら待っておりました。そして真黒な顔の子供をジロリとにらみました。
爺さんは今までのことを詳しく婆さんに話して、厄介な子供だけれども家で子供がないのだから、というわけでとに角大事に育てることにしました。
ところが子供は、御飯は沢山食べるが外に出て遊びもしません。終日いろりにあたっていて、ヘソばかりいじっています。

黄金の山

ある日爺さんは久し振りに、いつもより早く山から帰って釆ました。子供はやっぱり、ヘソばかりいじっていました。爺さんはあんまり子供がヘソばかりいじるのでヘソの中が悪いのではなかろうかと思って指先でソッとつついて見ました。
するとその途端「ピカッ」と光がさして、黄金の小粒が飛び出しました。「チャリン」と音がして床に落ちると忽ちお金に変りました。
爺さんはそれから何度ヘソをつついたかわかりません。軒の低い、窓一つしかない爺さんの家は、まばゆい黄金の光で急に明るくなりました。
婆さんの喜びようは大変なもので、四つん這いになって散らばったお金を両手でかき集めました。
それからというもの、子供は日に三度黄金を生みましたので、爺さんの家は忽ち近所でも羨やむ程の長者になりました。
お金持ちになった爺さんはもう木こりなどはしなくてもよいのですが、好きな仕事は止められません。爺さんは子供と婆さんを家において、やはり毎日山へ柴伐りに出かけました。
ところが婆さんは欲張りな女で(舌切り雀のおとぎ話と同じく、ここでも婆さんは欲張りになっていますが…)ある日爺さんが山へ出かけた留守に、もっと多くのお金を欲しいと思って、子供が嫌がるのを無理に抑えて火箸で「ジョキン」とヘソをつつきました。
ところがお金は一つも出ません。これはおかしいとまたつつきましたがやっぱり出ません。子供は苦しがって「ウーン」とうなりました。どうしても出ないので、婆さんはそれから何度もつつきました。
何度つついてもお金は一つも出ませんでした。子供は苦しさの余り「ウンウン」うなってもがきながらとうとう死んでしまいました。
夕方山から帰った爺さんは、この様子を見て大そう悲しみました。そして泣きながら子供をねんごろに葬いました。

カマの守リ神

子供を亡くした爺さんはそれからと言うものはろくに御飯ものどを通らず、好きな木こりにも出ず、子供のことを思い出しては泣いていました。
それからしばらく経ったある夜のことで.した。爺さんはその晩はいつになくゆっくり眠ることが出来ました。その夜爺さんの夢枕に子供があらわれて「泣くな爺さん、私がいなくても決して悲しむことはありません。私によく似たお面を作って、朝夕目につくところのカマ前の柱にかけて置けば、きっと前より運が向いてくるでしょう。」といって消えました。
翌日爺さんは朝早く起きました。早速子供の面を木で彫ってカマ前の柱に掛ました。いろりの側から眺めるとまるでお面は死んだ子供にそっくりで、本人も間違える程よく似ています。
それから爺さんは朝夕子供と一緒のつもりで、木彫りのお面をながめました。爺さんの家は前よりももっと運がよくなって、いつまでも裕福に暮らしたということです。
それからこの米里地方ではどこの家でも、この子供の面を木や粘土で作ってカマ前の柱にかける様になりました。
これが即ち、火=カマの守り神(火男=ひよっとこ)となったのだということです。火男は一名「かまずんぞう」とも言います。俗にお金持の家を「かまどのよい家」ともいいます。
米里地方には今でもこの「かまずんぞう」のある家は、相当ありますがどこの家の面も煤で真黒です。しかし顔は必ずしも道化面だとは限りません。普通の顔の粗雑なお面です。俗に色の黒い顔の人を「かまずんぞうのようだ。」と言います。そして年越しには煤を掃いてお正月にはご幣を上げて居ります。

あとがき

「爺さんが子供を貰ったと言う洞穴は一体米里のどこだと思いますか。」私(千田正助)はこの昔話を語った利蔵翁に聞きました。「さあ」利蔵翁は首をかしげて「それは山大畑の下の方の地獄穴(人首町の東五千米、中沢分校から二千米、今は開拓地でちょっと窪んでいる)がそうでしょう。山大畑の上の大森山中腹には田村麿将軍が勧請したといわれる大森観音の石窟や、丈余の鬼の石塔(人首丸の碑)もあるし、その外いろいろなものが残っているのだから…」と答えました。
この伝説は、江刺市米里宇野里向、後藤利蔵翁(旧姓浅倉・昭和三十三年十月、八十才で死去)の口述を私が聞いてまとめた文です。

(参考) 「ひよつとこ」の由来は「江刺郡の昔話」(佐々木喜善著)「後藤利蔵翁等の口述をまとめた書」によって広く紹介されている。(但し内容は極めて簡明に記されている)

この「ひょっとこ」の由来は父正助が存命中に内容を確認し再編したものである。
菊池明朗

星めぐりのたび

【開催日】平成22年8月21日
【主 催】賢治街道を歩く会
【共 催】奥州市立人首小学校PTA・木細工小学校PTA・米里振興会
21日(土)「星めぐりのたび」に60名程の地元、花巻、岩谷堂、玉里の小・中学生・先生・保護者・会員に参加いただきました。
午後4時 米里地区センターにおいて、浅倉牧子先生指揮、大鐘雅子先生の伴奏で宮沢賢治作詞作曲「星めぐりのうた」をおしえていただきました。花巻から参加した児童や昨年参加した子供たちもいたので、すぐ歌えるようになりました。その後、原子内貢先生から、「星めぐりのうた」に関わる星座を中心にお話をいただき、バスで一路種山ケ原の星座の森へ向かいました。土曜日でもあったので、キャンパーやキャビンの宿泊者でいっぱいで、それぞれ種山ケ原を楽しんでいるようでした。
[風の又三郎]ブロンズ像の前で記念撮影をし、米里産直のおにぎりで夕食。30分ほど園内を散策し、原子内先生の第2弾質問コーナー等で更に星座の知識を深めながら、夜を待ちました。「あっ、出ている」「見つけたあ、あそこ。」一番星金星を見つけて、子供たちから歓声が上がりました。しかし、残念。さっきまでの青空とうって変わって、高原特有のガスがかかってきて、種山ケ原での星空観察会を断念。宇宙遊学館へ移動も考えましたが、時間的に無理と判断しました。種山ケ原らしい
ガスにおおわれた星座の森を眺めながらアイスクリームを食べ、下山。皮肉なことに下界は星空。「ああ、無情」の一言でした。岩手日日の記者さんがこども達の生き生きした様子のとてもいい写真を、新聞に載せてくれました。

星めぐりのたび

星めぐりのたび

星めぐりのたび

星めぐりのたび

石の学習会

石の学習会01

石の学習会02

【開催日】平成22年8月5日
【主 催】賢治街道を歩く会
【共 催】奥州市立人首小学校PTA・木細工小学校PTA・米里振興会

宮沢賢治が幼い頃、石っ子賢ちゃんと呼ばれていたこと、そして、賢治が二度も地質調査のために米里を訪れていることに因んで、子供たちに米里の地質や石の成り立ちを少しでも知って欲しいという願いで、「石の学習会」を開きました。区内3校から児童、保護者、会員、小学校の先生方34名が人首川で石っ子拾い・砂金採りを行いました。
8時地区センターに集合し、かつて高校で地学を教えていた原子内先生(賢治研究家)を講師に、石について1時間ほど学習しました。その中で、地元の人からお借りしたモリブデンを含んだ石、金鉱石、餅鉄も紹介されましたが、子供たちは磁石に反応する餅鉄に感動していました。その後、行く予定だった中沢・山大畑は前夜の大雨で増水し危険なため、人首川の上流殿界橋(木細工と二股の中間)の下で石っ子拾いをしました。金鉱石や餅鉄を見つけては、大喜びしていました。その後の砂金採りでは残念ながら、誰も見つけることはできませんでしたが、事前に金鉱石を地元の人から提供していただいていたので、それぞれにプレゼントしました。これにも大喜びで、帰宅後、必死に砕いていた児童がたくさんいたそうです。数名の大人は初めから砂金採りに夢中でした?また、地区センターに戻り、拾った石に名前をつける作業では、夏休みの課題のこともあってか、真剣そのもので、終了後も先生はその対応におおわらわでした。なお、餅鉄も地元の方からこども達の分を提供していただいたので、一人に1個プレゼント。石っ子拾いをしているときに、「あっ、石英だ。」「餅鉄だ」というこども達の声を聞いて、やっただけのことはあったのかなと思いました。

林洋子 薩摩琵琶一人語り

林洋子薩摩琵琶一人語り01

林洋子薩摩琵琶一人語り02

林洋子薩摩琵琶一人語り03

【開催日】平成22年6月6日
【会 場】自徳寺(奥州市江刺区米里)
【出 演】林洋子

「林洋子 薩摩琵琶一人語り」(宮沢賢治作品の一人語り)が自徳寺で行われ、200名もの人達が琵琶の弾き語りを堪能しました。お寺の本堂での一人語り、更にロウソクの灯りとスポットライトだけということもあり、とても幻想的で素晴らしい会になりました。地元の小学生もスタッフに加わり大活躍でした。昨年度水沢で同じ会を主催した浅倉牧子氏・西川桂子氏にいっしょに活動を進めていただいたことが、大成功につながったと思います。
益金(35,280円)については、人首小学校・木細工小学校に宮沢賢治作品集中・高学年用を7月13日に寄贈。

種山ケ原の山開き

種山ケ原の山開き01

種山ケ原の山開き02

【開催日】平成22年6月6日

種山ケ原の山開きで、会長・事務局長が賢治の森までのピクニックの案内。春ゼミが鳴き、まさに晴天の高原を子どもたちと満喫。木細工小学校の「種山太鼓」の演奏もとても素晴らしいと思いました。