はじめに
 人首(現奥州市江刺区米里)は歴史深い土地柄です。北の明神山から、東の大森山、物見山、烏堂山は、それぞれ坂上田村麻呂と関連ある史跡や、言い伝えのある山々です。その中で大森山は、田村麻呂軍と蝦夷軍の最後の攻防地で、地名の由来ともなった人首丸(悪路王の弟の大武丸の子)の墓があり、言わばこの一帯は古代史エリアになります。
 またそれらに五輪峠が加われば、広大な蛇紋岩及び班糲岩層地帯となり、特に種山高原の麓の古歌葉周辺から伊手の口沢にかけての山間部は、金・銀・銅・鉄鉱等の有用鉱物の埋蔵が豊富で、平泉藤原氏時代から採掘され、その後の江刺の鉱山業発展の源ともなっております。
 その中心部を、東西に走り抜けるのが盛(さかり)街道ですが、それは一方の五輪街道と共に、古くから内陸と三陸を結ぶ重要な交通路として発達してきました。人首町はちょうどその分岐点に当ります。
 慶長11年(1606)、沼辺氏が現宮城県から地頭職として移封され、人首川沿いの地形を活かしての町づくりが始まり、現在の町並みの原形が完成したのは明和3年(1766)と伝えられます。伊達と南部の藩境として要所に位置し、また盛や五輪街道との関係から、常に旅人の往来が激しく、その頃に宿場町としての基盤が形成されました。
 その後、人首町が最も繁栄したのは、大正から昭和初期にかけてのことです。明治30年に岩手の八県道のひとつとして盛街道が認定され、そこに一時的ながらも栗木鉄山の隆盛や、またカトリック教会とハリストス正教会(ロシア正教)の二つの教会の出現などが影響し、その繁栄ぶりは昭和初年に作成された「米里名所絵葉書」等に、良く表れています。
 明治39年には、河東碧梧桐が、遠野に行く途中に足を休め「人首(ひとくび)と書いて何と讀む寒さかな」と詠んでいます。また大正9年には、柳田国男が三陸海岸北上の旅行の際、佐々木喜善の配慮で人首に立ち寄り、村役場を訪ねていますが、喜善の『江刺郡昔話』(大正11年発行)は、人首出身の浅倉利蔵から聞いた話が主となっているのです。
 宮沢賢治が人首に足を踏み入れたのは、そんな状況の中でした。賢治は二度、人首を訪れていますが、一度目は大正6年9月3日の江刺郡の地質調査の途で、二度目は大正13年3月24日(〜25日)のことです。

江刺郡への地質調査
 賢治が友人二人を伴って、初めて江刺を訪れたのは大正6年8月28日のことでした。目的は江刺の山々の地質調査ですが、その期間は当初の予定通りとすれば、同6年9月8日迄となります。賢治の歩いた江刺の街道は、黒石街道、気仙街道、盛街道、五輪街道ですが、それらのほとんどが大正年間に改良整備され、名称も盛街道だけが「県道」となり、他はみな「里道(村道)」に改められました。
 また江刺の東南部の山々には、「姥石峠・鴬峠・七曲峠・越路峠」の4つの峠が存在しますが、その中で伊手の口沢から物見山(種山)方面に向かうには、鴬峠から古歌集の奥の古道(昔の峠道)を上って、姥石峠へ抜ける経路が最も近道といわれます。口沢〜鴬峠〜古歌輩(古道)〜姥石峠〜物見山という順路ですが、賢治一行も大正6年9月3日の早朝から昼にかけて、そのコースを辿った可能性が高いと思われます。

盛街道と栗木鉄山
盛街道は、現在の県道8号線に当ります。人首町を起点とした場合、二股〜木細工〜重王堂〜姥石〜住田〜大船渡(盛町)という道順ですが、現在は国道397号線との接続から路線変更となりました。そのため、本来の重王堂から姥石に通じる盛街道(県道=葛折りの峠道)は、すっかり寂れてしまいましたが、実はこの盛街道の全線開通(特に重王堂〜姥石間)は、山間部の鉱山事業と、密接な関係にあったという逸話が地元には残っております。
 第一次大戦が勃発し、日本が参戦したのは大正3年8月でした。その後大正8年6月に終結しましたが、軍需産業の拡大に伴って、江刺の鉱山地帯もその影響を受け、例えば伊手の黄金坪鉱山では、大正6年7月にタングステンが発見されています。またこの鉱山は、モリブデン鉱床発見の可能性のある場所としてもあげられていますが、このようにこの区域には、新たな資源を求めて、重点的に官民の調査の手が入った形跡があります。その中で最も早くから、その時代状況に即応するかのように、採掘し始めていたのが「栗木鉄山」でした。
 栗本鉄山は、その昔「人首鉄山」とも言いましたが、明治43年に創設し、その採鉱口と事務所が重王堂にありました。しかし精錬所が、世田米の栗木沢にあったことから、それで栗本鉄山と称し、本社事務所もそちらに置いたのでした。栗本鉄山が隆盛を極めたのは、大正2年から大正9年です。もちろんそれは第一次大戦の鉄の需要に伴ってのことですが、生産高は国内の民営における釜石、仙人峠に続いての三番目に位置し、全盛期の労働者は約二千人といわれます。米里の大野・火石周辺から、延長約9キロの鉄索を栗木沢にまで延ばし、その中継地点が姥石でした。この事業は県南四郡の中では最大規模で、盛街道は精錬した鉄を水沢駅に運ぶための荷馬車や、鉱山関係者で大変賑わったということです。最も生産量の多いのは大正5〜7年ですので、それはちょうど賢治の訪れた大正6年の時期と重なるのです。

旧盛街道と山本
近世の盛街道は、水沢を起点として岩谷堂〜人首町〜二股〜山本〜種山ケ原を経て、物見山の山頂を迂回し、大船渡の盛町まで至る経路です。全長79.5キロで、人首の二股から左折し山本を通って行くわけですが、そこには二股番所跡があり、また山本と種山ケ原には、それぞれ七里塚(一里塚)がありますので、交通の要衝だったことがわかります。この道筋を、地元では「旧盛街道」と呼んでいるのですが、古くから旅人の往来が多くあり、その頃の山本は種山越えの休息地として、あるいは仮宿まであったともいわれ、今も道端にたたずむ古碑や史跡が、その名残りを伝えています。
 童話「種山ケ原」に登場する「上の野原]は、種山ケ原がモデルで、主人公の達二少年の家のあるところが、麓の山本といわれます。同書「種山ケ原」中に、「達二はあの奇麗な泉まで来ました。まっ白の石灰岩から、ごぼごぼ冷たい水を噴き出すあの泉です。」とありますが、実は山本も石灰岩層地帯に属し、湧き水(泉)の多いところです。実際に山本から種山ケ原へ上る途中に、そういう「泉」が本当にあったと伝えられています。さらに「その旅人と云っても、馬を扱う人の外は、薬屋か林務官、化石を探す学生、測量師など、ほんの僅かなものでした。」という情景からは、一方の繁栄した盛街道よりも、旧盛街道の閑散としたイメージが強く感じられます。
 また賢治が、種山ケ原から人首町へ向かうとすれば、山本から二股への旧盛街道がより近道となります。米里郵便局からの葉書の消印が、大正6年9月3日の午後3時から6時ですので、物見山周辺で道に迷ったとしても、時間的問題を考慮に入れれば、このコースが最も適するのではないかと思います。

山本の「火の神」とモリブデン鉱
 賢治は、モリブデン鉱床発見の可能性のある場所として、英文メモで江刺郡の「日の神付近・市の通付近・阿原峠の北麓」をあげています。その中で「阿原峠の北麓」は、伊手の黄金坪鉱山とされ、また「日の神付近」は梁川と推定されています。確かに梁川の町場近くにその地名がありますが、しかしそれはあくまで「Hinokami」から推測されたもので断定はできず、また梁川自体、昔から鉱物資源とはほとんど無縁といって良い土地柄なのです。
 それに対し山本は、黄金坪鉱山や栗木鉄山とは近隣で、仮に第一次大戦に伴って調査区域の対象に入ったり、あるいは賢治が調査の途に訪れたとしても、何ら不思議ではありません。実はこの山本に「妙祇山」という、慶長年間から続く古い神社かありますが、地元ではそれを通称「火の神」と呼び、またそれは周辺一帯の代名詞のようにもなっています。旧盛街道沿いで、種山ケ原(「風の又三郎」の「上の野原」のモデル)の麓にも位置し、賢治のその英文メモは、本当はここを指しているのではないかと思われます。

旧米里郵便局と人首のお医者さん
 旧米里郵便局は、現米里郵便局から岩谷堂方向へ約200メートル下手にあり、現在は私有地になっておりますが、その周辺は昔から様々な職業の人や、商店が軒を並べていました。中には戦後も引き続き、人首川で「砂金取り」をしていた人の家もあります。賢治が出した葉書の消印は、大正六年九月三日の午後三時〜六時ですので、間違いなく彼はその時間帯に人首町を訪れ、米里郵便局に投函したことがわかります。
 また賢治が人首町で接触した可能性のある人物は、三人おります。その中の一人が「人首のお医者さん」です。友人佐々木又治宛(大正7年4月18日付)の手紙中で触れられていますが、当時人首にお医者さんは一人だけでした。そこはちょうど菊慶旅館を真中に挟んで、旧米里郵便局から約500メートルほど離れたところの「角南医院」です。現在は建物も無くなり、土地の所有者もかわっていますが、庭に囲まれた古いたたずまいで、母屋の一室が診察室になっていました。医師の名前は「角南恂(すなみまこと)」で、この時賢治は21才で、角南医師は37才でした。

菊慶旅館
 菊慶旅館は、今も当時と同じ場所ですか、そこは新町と呼ばれ、明和3年(1766)に六軒から始まった町並みと伝えられています。現在の旅館名に変わってから、四代続いていますが、明治後期から大正〜昭和にかけて最も繁盛し、時の大津県知事が十数人の随行者と共に投宿するほどの老舗旅館だったのです。
 菊慶旅館が有用されたのは、馬繋場が隣接していたことです。岩谷堂でも馬まで連れて泊まれる旅館はなく、特に南部方面の人々から、大変重要視されたといいます。二つの主要街道を抱え、その分岐点としての位置から、必要不可欠な存在だったのでしょう。
 賢治の大正6年9月3日の投宿については、同行者の誰かが体調を崩したと思われ、また岩谷堂へは乗合馬車は一往復だけで、葉書投函の時間帯からすれば、岩谷堂へ戻れる可能性はなくなります。むしろ賢治らは、投宿せざるを得ない状況に置かれたのではなかったかと思います。その後の、賢治一行の足取りは不明ですが、調査の予定日数はまだ3〜4日は確実に残していますので、おそらく休養をとった後に、再度種山ケ原や五輪峠方面に向かったのではないかと思います。

五輪峠と五輪塔
 大正13年3月24日付の詩「五輪峠」から想像される風景や道筋は、現在もところどころ残っており追体験できる場所として再認識させられます。賢治はその日、岩手軽便鉄道の鱒沢駅から鮎貝〜切伏〜五輪峠の行程を、おそらく年下の知人(上大内沢居住者の可能性あり)と共に、またはその彼の案内で、上大内沢を経て人首町方面へ向かったことが推測されます。峠の頂上付近は、昭和31年の開通工事で様変わりしていますが、現在の五輪塔の位置は、本来は反対の人首側にあり、かなり小さめで、おそらくそれが賢治の目に映った「しょんぼりと立つ」五輪塔ではなかったかと思います。
 その由来は約350年前、人首の五輪街道筋の上大内沢にいた、千葉日向という侍が、父(上野)の菩提を弔うために建立したものです。五輪峠には、様々な歴史が潜んでいます。近世には幾つもの戦いがあり、その度に多くの血が流されといいますが、この峠にまつわる逸話は、暗く悲劇性の濃い話ばかりです。

五輪街道と上大内沢
 五輪街道は、賢治の歩いた江刺の街道の中で、最も当時の景観を残している道筋です。藩制時代には「上大内沢番所」があり、明治中期頃までは遠野と江刺を結ぶ唯一の街道で、常に旅人の往来が盛んだったといいます。この街道に陰りが見えたのは、明治30年の花巻〜釜石間の県道開通以後で、さらに決定的となったのは大正2年の岩手軽便鉄道でした。しかしその後、大きな道路工事も無いことから、逆にそれが幸いし、当時の状態が保たれたのでしょう。
 また北新田を過ぎて上大内沢に入ると、数軒の民家が密集して現れますが、そこはちょうど山手側からの清流と街道が交差する地点で、地元では「馬洗淵」(まりゃぶち)と呼んでいます。五輪越えを終えた馬喰達が、休息を兼ね馬を洗ったのが由来といいます。詩「丘陵地を過ぎる」の「丘陵地」は北新田を指し、詩中の「水がごろごろ鳴っている/さあ犬が吠えだしたぞ」は、その「馬洗淵」周辺を表しているように思います。

詩「人首町」と「下書稿」
 詩「人首町」には、「下書稿」の(一)と(二)があります。それには実際に現地を訪れ、その時間帯を体験しなければ表せない事柄が、幾つも記されています。
 例えば「けさうつくしく凍っていて」「遠い馬橇の鈴」ですが、三月末の人首町は未だ冬の寒さが残り、また材木を積んだ馬橇の鈴の音の響きは、山村ならではの冬の風物詩です。
 賢治の視線は、町の下手から五輪峠方向に注がれております。「丘には杉の杜もあれば/赤い小さな鳥居もある」は、その右方向にある久須師神社の建つ「壇ケ岡」です。
 さらに「林務官・行商人・税務署の濁密係」が登場しますが、つまり彼らは、菊慶旅館前の「バス停留所」に向かうため、家々の間から道路に飛び出すように現れたのでしょう。大正13年は乗合バスが運行していますので、賢治もそれを待っていて、それらの光景に出会ったのだと思います。

菊井小兵衛と中学校のテニスの選手
 「下書稿(一)」に、「甲地九兵衛」という人物が現れますが、「下書稿(二)」では「菊井小兵衛」の名に改められています。ところが、それと良く似た名前で「菊田久兵衛」という人が、菊慶旅館の二軒東隣に住み、当時からずっと豆腐店を営んでおりました。この時彼は21才ですが、彼がモデルになった可能性が高く、朝早くから働く姿が、賢治の目にとまったのかも知れません。あるいは賢治が、直接店先を訪ねたことも考えられるでしょう。
 また同じく「下書稿(一)」の中に、「中学校のテニスの[選手→主将]」が登場しますが、ちょうどこの頃に「テニス兄弟」と呼ばれ、盛岡中学と盛岡商業でそれぞれ活躍したという佐賀兄弟がおります。ただしこの場合は、年齢的にも明治41年生まれで盛岡中学在学の兄の佐賀愛二が該当するように思います。バス停留所に向かって、ラケットを手に歩いてくる彼の姿が、賢治の目に印象的に映り、声をかけたりしたのかもしれません。

二つの教会
 人首町の上下に、ハリストス正教会(ロシア正教)とカトリック教会の「二つの教会]が出現したのは、明治初期から中期にかけてのことでした。ハリストス正教会が発足したのは明治十四年ですが、ところがそれ以前の明治元年に、坂本龍馬のいとこの「沢辺琢磨」がその護送途中に、「人首番所」で役人を相手に教えを説いているのです。それが本州で最初の説教となっているのですが、その後人首町に教会堂が建設されたのは明治23年でした。
 一方のカトリック教会の設立は明治17年で、教会堂は盛岡の四家教会に次いで二番目の建物です。その頃は一日に三度、二つの教会堂の鐘の音が、村全体に鳴り響いたといいます。おそらく賢治もそれを耳にしたと思いますが、信者数は多い時で300名を越し、また当時の写真からもわかるように、一際目につくのが「ハリストス正教会堂」です。それも間違いなく賢治の目に映っていた筈ですが、残念ながら昭和八年の町の大火で焼失しております。