3月10日面白い現象に出会いました。6時10分種山ヶ原を眺めると写真のように光の柱が真直ぐ天に。調べると「太陽柱」らしいです。「早起きは3文の得」でした。ありがたやありがたや。
続きを見る>>種山ヶ原は今㉛
「賢治街道を歩く会」は宮沢賢治の足跡や作品と米里の関わりの深さを正しく後世に伝えるため発足した会です。
3月10日面白い現象に出会いました。6時10分種山ヶ原を眺めると写真のように光の柱が真直ぐ天に。調べると「太陽柱」らしいです。「早起きは3文の得」でした。ありがたやありがたや。
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開通後ただちに五輪街道を走ってみました。沢には春蘭が咲き、かわいいスミレも咲いていました。五輪塔の周りにはカタクリの花がかわいい顔でうつむいていました。街道の桜は咲いていましたが、五輪塔の桜は、5月には咲くでしょう。
続きを見る>>五輪峠は今②
1 五輪峠の歴史について
【五輪塔について】
今から350年以上前に、上大内沢の千葉日向という侍が、葛西大崎一揆によって葛西氏が攻められた時、従軍して戦死した父の菩提を弔うため上野の子息日向が寛永年間に建立したものと言われている(江刺郡志)。千葉上野屋敷跡は上大内沢にある。
峠はかつての盛岡藩領と伊達藩領の藩境で、麓には両藩の境目番所があった。
昭和29年五輪峠に行った時、まん丸い石が崖の下にあり、不思議に思ったことを覚えている。地震で崩れていたのだろう。その後31年に県道ができた時、花巻側に移されたのでしょう。現在の五輪塔は三代目と思われる。
続きを見る>>五輪峠は今①
「俺らのがきの頃は、種山は一面野芝だったがら裸足で歩いだもんだ。あるのは馬っこも食わねえレンゲツツジだげさ。」
私たちはそんな話を聞いて、宮沢賢治の「イーハトーブ風景地」でもあり、少しでもその当時の姿を残そうと草刈りをしながら守ってきました。その当時も咲いていた「皿っこ花っこ(東菊)」やツツジも賢治の森や物見山にいっぱい咲くようになりました。そんな取り組みの記録として撮っていた写真を地区民にお見せして、「種山ヶ原は俺たちの山なんだ」という意識を持っていただきたいのです。今回から6回に分けてお知らせします。写真の説明を小洒落て俳句でと思いましたが、難しいと感じました。恐れ多く5・7・5の形で書きます。
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