「種山ヶ原」の再生と子ども達の心を育むために

「蓮華つつじ・野芝を守る」取り組み

<令和1年度の取り組み>

先日花巻生まれの元同僚の年賀状に「小学生の頃、父に種山ヶ原へ連れていってもらった時、広い草原で、いいところだったと記憶している。もう一度行ってみたい。」と書かれていた。小学生の時種山ヶ原で裸馬に乗せていただいたことがあった。お尻が痛かったことの方が強烈だが馬の背に乗ったせいか確かに広いと感じた。

木細工の人達は、秋の放課後はよく賢治の森にのぼって秋グミやヤマナシを食べたと言う。その頃は、一面野芝で裸足でも歩けたと言っていた。

少しでも昔に近づけたいという思いもあって、市の助成をいただきながらこの取り組みを続けている。意義に賛同し、参加してくれた人たちに感謝の気持ちでいっぱいだが、老齢化が進み、参加者が減ってきた。

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ニホンオオカミと判明。米里にも昔、ニホンオオカミが!

宮沢賢治作品に「狼森と笊森、盗森」があります。その狼が、米里にも住んでいたのかどうか疑問でした。

しかし、米里字下大内沢の千田佐一さん宅に伝わる獣頭骨の一部がDNA分析の結果、ニホンオオカミのものと判明しました。和牛を飼育している佐一さんが、長年懇意にしていた愛宕の獣医師菊池さんの図らいで、岐阜大学石黒直隆教授に鑑定を依頼していただいたお陰とのこと。根付として使われていたということは、山仕事の際のお守りだったのだと思います。米里にもオオカミが本当にいたとはびっくりです。

確かに白山神社の白山堂東斜面には、狼穴(おいのあな)という所があり、山本川の上流や物見山の北側には狼が寝そべった狼岩という平らな岩があります。五輪峠には、オオカミに食べられた一家の話も残っています。また、狼に襲われて亡くなった方を弔った石仏が種山ヶ原の監視小屋のそばに立っています。中屋敷には風習として、1月14日の晩に餅2切と煮干し2匹を、5月4日の晩には白いおにぎりを狼に供えていたと言います。子供たちは、「それを道端に置いたら絶対後ろを見るな」と言われ、道端に置くと「山の旦那さま、あげまーす」と叫んで逃げて帰ってきたといいます。それほど、狼への恐れがあり、その反面畏敬の念もあったのでしょう。中郡地区には、向平当に明治36年に衣川の三峯神社から分霊勧請した三峯山があり、毎年旧暦3月19日に講中から3名の代参人を派遣し、ご祈祷を受け、御神符を拝載して帰りました。そして、その夜講中一同が参集し、直会を開き、御神符の分配と代参人の引継ぎを行なわれるという風習があり、今なお続いています。

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