「大森山」は種山ヶ原のとなりにあり、800年頃 人首丸と坂上田村麻呂との最後の決戦の場所。この頃朝廷は蝦夷討伐に幾度となく兵を送っている。胆沢平野ではアテルイとモレは民のことを考え、降伏し京都に連れて行かれるが、惨殺された。人首丸は最後まで朝廷と戦うことを決意し、北上山地の大森山を決戦の場とした。この時の大将は娘婿田村兼光。人首丸は戦いに負けたが、若き武将「人首丸」の名は地名として残っている。<人首町、人首川、人首小学校etc>
明治22年までは人首村だったが、米里村に村名をかえた。
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