種山ヶ原で草を刈った思い出

語り手 奥州市江刺区米里字中沢  浅倉 芳吉 氏(1922年生まれ)

 当時、種山ヶ原は一面の草原で、春になれば野焼きが一斉に行われ、手入れが行き届き、草履を履いてどこまでも行けるような美しい野原が広がっていた。晴れた日には早池峰山、 岩手山、駒ケ岳、須川岳(栗駒山)、室根山、五葉山と展望が素晴らしい。
 毎年、9月1日は草刈りの鎌明きで、その日は朝暗いうちから準備して馬2~3頭を引き、いつもの草刈り場に向った。朝夕出入りには家内総出で道中安全を祈りながら手伝った。なるべく人手は多い方がよいので、馬のいない家の人を頼んだり、若い嫁さんも無理して乳呑み児を置いて出かけたこともある。先頭の親馬の荷鞍に乗り、草を束ねる縄を綯いながら行ったものだ。
 4~5日は泊りがけになるので、簡単な小屋を組み、一心に草を刈り、広げては干し、広げては干したが、丁度台風の時期に重なるので雨や霧が非常に心配であった。
 朝はどの小屋からも炊事の煙が細く立ち昇り、仁徳天皇の故事が偲ばれた。当時、草丈は短く、鎌砥ぎには苦労した。一日中腰を曲げて鎌を振るった。乾草が出来れば、束ねて馬に積んで家に運び、また翌日も繰り返した。
 家までは片道7kmで2時間を要した。夕食後は翌日使用の馬沓を作った。当時は時計を持っている人もいないので、午後は太陽の傾きを見て判断し、行動した。
 親馬と、生まれて6ケ月位のまだたどたどしい仔馬も一緒に連れて行くので、道の悪い所を行くのは大変であった。種山の乾草は良質で馬の飼養には最適であった。
 私が兵隊に行く前の昭和14年までは、毎年親父と草刈りに行ったものだ。

 このような草刈りは、おそらく藩政時代から明治、大正、昭和と続いて行われていたと思う。昭和15年頃からは村営放牧地となり、その後だんだん山の手入れも行われなくなり、種山ヶ原の様子はすっかり変わってしまった。昔、沼辺の殿様が鴨狩をしたという大きい溜池があって、どんな日照りの時も水が枯れることが無いといわれていたが、今は土手が少し残っているだけである。
 宮沢賢治先生の詩の中に、「種山ヶ原の 雲の中で刈った草は どごさが置いだが 忘れだ 雨ぁふる」とあるが、まさに当時の実感である。

平成19年12月3日記録
聞き手 利府 眞三 氏