「蓮華つつじを救おう」運動

平成25年6月1日(土)

種山ヶ原は清々しく、春ぜみ、カッコー、不如帰の鳴き声に迎えられ、物見山山頂に到着。早池峰・駒ヶ岳を中心とする西山がくっきりときれいに見える。しかし、岩手山、須川岳はうっすらと見えるだけで、とても残念であった。今日要請した人たちの多くはしばらく物見山山頂に登っていないと思ったからである。
今日の取り組みに12名(小竹、菊池春、菊池祐、菊池進、菊池敬郎、数江與、杉田勇、菊池隆、菊池英、佐藤信、山崎、支配人菊池)が参加してくれた。多謝!経費の関係で多くの人に要請できないのが残念である。
9時過ぎから主旨(①ツツジを救い出す②野芝を救う)説明をし、手分けして作業を開始した。今日は、何故か観光客が多く、頼まれもしないのにガイドをしてしまった。年寄りの悪い癖か?
2時間もすると自然と作業の手が止まる。ほとんどが70歳以上であるから仕方がないことである。無理なく、楽しんでが我々のモットー。星座の森のレストランで休憩し、解散。お疲れさまでした。今年度はあと2回計画しているので、協力できる人はご連絡をお願いします。次回は6月11日午前中の予定です。

蓮華つつじを救おう運動
後ろには岩手山が見えていた
蓮華つつじを救おう運動
後ろはアメダス測候所

蓮華つつじを救お

蓮華つつじを救おう運動

来春は野芝の面が広くなり、ツツジもいっぱい咲くでしょう。来年は住田町の人達といっしょにこの取り組みをしたいと考えています。

ふる里ニュース

「アンジェラスの鐘」の屋根が変わったよ! 宮沢賢治も聴いたであろうカトリカ教会の鐘!
明治17年教会堂が建立され、ジャッケ神父が常駐。明治30年代はマリオン神父、40年代はドシェ神父、マトン神父が常駐し、布教活動を続けていました。戦後は渡部さんが常駐。渡部さんが亡くなられてから三人のシスターが常駐し、布教活動が続けられた。明治38年から「アンジェラスの鐘」(フランス製)が人首の町に鳴りつづけて100年以上。しかし、信者の減少により常駐する神父もなく、鐘の音も途絶えることもありましたが、地元の小学生と地元有志によって鳴らし続けられています。
夕方5時前から「遊学スクール」(放課後教室)の子供たちと教会下の「一心床」の主中山昇幸氏及び有志がアンジェラスの鐘を鳴らしています。5時2分前に自徳寺の鐘、1分前にアンジェラスの鐘が鳴り始め、5時にはお館山のサイレンが鳴ります。時間的に微妙な差をもって人首の里山に3つの鐘が鳴り「音のある風景」の一つとして流れています。地区民にとっては心の安らぎを感じるひと時です。
過日、主に水沢教会の支援、そして大内住建・佐藤一郎板金、地元有志の支援で、鐘塔が改修され、十字架も取り付けられました。水沢教会、棟梁の大内住建、一郎板金、ボラテイアの皆さんありがとうございました。また、花壇に花木や花の球根や苗を提供していただいた1・2区の皆さん、ありがとうございました。
5月10日(金)4時30分から、遊学スクールの児童20名、地元の人たち等40名が集まり、お祝いの会が開かれました。カトリック水沢教会高橋昌司祭によるお祈り・祝別・讃美歌、花壇への花の種蒔き、そして、完成を祝って500個の「餅まき」が行われ、11個も拾った子もいて、大いに盛り上がりました。5時に子供と大人の代表が鐘を鳴らし、人首に町に鳴り響きました。

アンジェラスの鐘

アンジェラスの鐘

アンジェラスの鐘

アンジェラスの鐘

アンジェラスの鐘

アンジェラスの鐘

オズーフ司教の人首巡教記録

明治21年7月

ジャック神父の報告書によると、明治21年にはオズーフ司教が巡教し、実に盛大だったと伝えられています。

「(気仙沼教会の次の目的地が人首教会)7月23日気仙沼教会を出発。薄衣まで徒歩、ここから川蒸気船で一関泊、水沢で休憩のあと腕車(人力車)で人首に向う、水沢より人首まで5里ばかり、多くの信者が先頭に十字架の旗を立て、整然と行列をなして進む。人首に入るや一層の人数と参観者で道路は通行できないほど、人首村の小丘にある殿堂には緑門球燈その他いろいろな装飾を施し、田舎に不似合いな盛況に一同驚く。夜になって更に驚いたことは25年振りという打ち上げ花火が実に見事であった。当時は以前魯西亜教会(ハリストス正教会)の布教地であったが信者は我が公教に帰服して今はほとんどいない。司教は聖堂に参拝し、信者一同に謁を行賜い信者の祝詞など聞かれた。翌25日は聖シャコボの祝日で、洗礼4人堅振32聖体は5,60人に達す。司教は信者の厚遇に後ろ髪引かれる思いで人首を後に水沢教会へ向かった。」26日水沢発盛岡へ、盛岡の町に入る頃は腕車の数は5,60台もあった。オズーフ司教はその後青森へ向かってい
ます。

ジャック神父・報告書
明治32年

「東京より汽車にて青森に至らんとする人は岩手県水沢の停車場に着く頃、右方に当たりて鋸の歯形をなせる山脈の連れるを見ん。その中に殊に高く聳ゆる一峰あり。勾配北に向かうて漸くに降る。之を種山と呼ぶ。(宮沢賢治で有名な種山ヶ原。水沢より7里)人首の邑は其の麓に在り、大船渡街道に当りて戸数二百余を数え、我が岩手第二の教会あり。能く信仰を守り居る我が信者は、凡そ60人を数うるなり。復活の勤めをなす信者のみにても30人を越ゆ。此地に最も長く働ける伝教士を吉田喜三氏とす。昨年9月司教閣下が堅振の秘跡を授くるために臨まれし時の如き此地の信者は能く2か月の間熱心に教理を研究し、当日の準備をなしたりき。・・・・・・・ 」

ジャック神父・報告書

ジャック神父・報告書

ジャック神父・報告書
三人のシスターが去り、教会を守る人もなく、老朽化したために2010年初冬取り壊されました。子どもの頃、信者でもないのに毎週日曜日9時になると、カトリカ教会に礼拝堂ぎっしりとなるくらいの子供達や信者が集まり、お祈りをし、賛美歌を歌い、神父さんのお説教を聞きました。時には外国人の神父さんが外車で来たり、葬式も仏教と違い華やかだったりと色々なことを知ることができました。そのようなことを懐かしみ、語り、写真を撮ってお別れをしました。なお、地元の人たちはカトリカ教会と言いますが、正しくはカトリック教会と言います。今は、カトリック水沢教会が管理をしています。

案内板設置完了

案内板設置完了

地域の方々、子供達、賢治ファンのために、これまで20枚の案内板を設置し、今回3枚の案内板を追加し、概ね完了しました。米里の地域の方々、米里を訪れる賢治ファンの方々にとって賢治作品の追体験ができる環境ができたと思います。
五輪峠には「賢治の歩いた峠道」を、人首町には「人首町」「人首町下書き稿」をそれぞれ設置しまた。五輪峠は蛇紋岩の岩山で、設置のための穴掘りには苦労しました。佐伯研二氏、千田義一氏、ご協力いただいたケンナンサインさん、ありがとうございました!

案内板設置『賢治の歩いた峠道』

案内板設置完了
五輪街道は、宮沢賢治の歩いた江刺郡の旧街道(黒石・気仙・盛)の中で、最も当時の景観を残している道筋です。特に、この五輪峠から北新田までの峠道は、その後の道路開発からも逃れ、ほんど昔のままの状態が残っています。
今では地元住民にも忘れ去られようとしていますが、明治元年には本州で一番最初にロシア正教を人首番所で説いたという澤邊琢磨(坂本龍馬の従兄弟)や、同三十九年には高名な俳人河東碧梧桐、またその後の大正九年八月に柳田國男などが、この峠を上って遠野に向かいます。さらに、柳田に『遠野物語』の原形を伝えた佐々木喜善は、大正十一年二月に、遠野側からこの峠を下り、江刺郡の徒歩旅行をしていますが、その時の体験は、後に刊行された『江刺郡昔話』(大正十一年八月刊行)の中で、『江刺を歩き』と題し、表されています。
賢治が初めて五輪峠を訪れたのは、大正六年九月の江刺郡の地質調査時です。同行した友人の高橋は、賢治が「五輪峠では、蛇紋岩脈にハンマーを打ち入れ転び散る岩片を拾い乍ら、ホーホー二十年万年もの間陽の目を見ずに居たので、みんな驚いていると叫んでいた。」と述べていますが、現在も峠道の処所で、それと同じように露出した蛇紋岩体に出会うことができます。

案内板設置完了
賢治が二度目に五輪峠を訪れたのは、大正十三年三月です。その時は、現在の釜石線の鱒沢駅 で下車し、鮎貝~切伏~五輪峠を経て、人首町へ向かったことが推定されます。特に、五輪峠から人首町への行程は、第二詩集の『春と修羅』に収められた『五輪峠』「丘陵地を過ぎる」「人首町」等の連作から想像できます。現在もその道筋を辿ると、それらの詩に、描かれた情景がつぶさに浮かんできて、数少ない追体験のできる貴重な空間ともなっているのです。

賢治街道を歩く会

「人首町」 宮沢賢治 1924年3月25日
雪や雑木にあさひがふり
丘のはざまのいっぽん町は
続きを見る>>hitokabemachi.pdf

『蓮華つつじを守ろう』

【開催日】平成24年11月22日

寒さに耐え頑張りました!
寒さに耐え頑張りました!

種山ヶ原は賢治が来た頃は、馬や牛が放牧されているために、彼らが草を食べ、一面に野芝が敷かれた牧場でした。昭和30年代まではスズランやアツモリソウがいっぱい咲いていました。

物見山が見えるようになりました
物見山が見えるようになりました

馬や牛は蓮華つつじを毒と思うのか、蓮華つつじだけが多く残り、春は山一面に見事な蓮華つつじが咲いていました。しかし、今は、牛の放牧が減り、県営牧野の人手も少なくなり、牧場は放置され、灌木や丈の高い熊笹が茂ってしまいました。そのために、すっかり様変わりしてしまい、蓮華つつじは灌木や熊笹に覆われてその姿が見られなくなりました。
昨年度から種山ヶ原を元の姿に取り戻そうと取り組み始めました。昨年度は、「賢治の森」からの眺めよくしようということで、松の木を伐り、笹を刈りました。十二月の吹雪の日でした。

東菊の群生。もう少しそっとしておきたいが…
東菊の群生。もう少しそっとしておきたいが…

それまで灌木や熊笹で隠れていたツツジが顔を出しました。今年の春はいっぱい花を咲かせていました。その頃賢治の森には東菊(皿っこ花)が一面に咲きます。そう少しそっとしておいて欲しいが。

今年の「種山ヶ原山開き」
種山ヶ原山開き

種山ヶ原山開き

種山ヶ原山開き

11月22日(木)
「蓮華つつじを救う」今年の取り組みは、熊笹に覆われたツツジを救おうと笹刈りにしました。今年こそ、雪のない所でと思いましたが、さすがに種山ヶ原には前日の雪が積もっていました。それでも、見事に空は晴れ渡り、奥羽山脈はもちろん、岩手山・早池峰山・室根山もきれいに見えました。そんな中での作業は、順調に進み、蓮華つつじがいっぱい顔を出し、みんなで喜び合いました。来年はさらに松林を切り開こうと話し合いました。この取り組みに参加していただいた菊池祐孝氏、小竹倉男氏、平澤孝順氏、千田伸二氏、佐賀秀一氏、千田義一氏、ありがとうございました!

蓮華つつじを守ろう

蓮華つつじを守ろう

蓮華つつじを守ろう

第2回『文学散歩』 「宮沢賢治の世界」ワークショップ~五輪峠の古道探訪会~

<宮澤賢治が大正13年江刺を二度目に訪れたコース>
24・11・1 曇り時々晴れ
《8:10》水沢駅東口出発
《8:45》江刺支所出発
《9:10》JA米里支所 34名参加
《9:40》紅葉の五輪峠への山道を大きなバスで。
峠で道案内人佐伯研二さんの「賢治と五輪峠」についてお話を聞き、五輪街道散策に出発。

 

五輪の塔前で
五輪の塔前で

五輪峠の古道探訪会

五輪峠の古道探訪会

45分ほどで、大内沢に到着。
今なお残る賢治が見た上大内沢集落のこと、「さかや」「おどや」「まれぶぢ」等のことを聞きながら、街道を散策。
五輪峠の古道探訪会

五輪峠の古道探訪会

《11:45》佐伯邸に到着し、米里産直のみそおにぎり、鈴木だんごやのあん餅としょうゆだんごを食べ、人首文庫を見学。文庫の中の物に驚く。
《12:40》道案内人のガイドで人首町を散策

佐伯邸前で
佐伯邸前で
賢治か友人が診てもらったお医者さん宅の前で
賢治か友人が診てもらったお医者さん宅の前で

 

《13:30》水沢緯度観測所へ出発。
国立天文台名誉教授大江先生のお話を聞くことができました。緯度観測所の設立の経緯、木村栄先生のこと、賢治が訪れたこと、「銀河鉄道の夜」のこと等のことが聞くことができてとても勉強になりました。

五輪峠の古道探訪会

五輪峠の古道探訪会

旧水沢緯度観測所(宇宙遊学館)の前で
旧水沢緯度観測所(宇宙遊学館)の前で

道案内人佐伯研二さんには賢治の作品について幅広く、楽しく、そして、宇宙遊学館(旧水沢緯度観測所)理事長大江昌嗣先生には賢治と宇宙について映像を駆使して分かりやすくお話いただき、とても貴重な文学散歩になりました。本当にありがとうございました!