埼玉大学有機農業研究会との交流会 二代目竹山さん+ボイススペースかがり火の焔の中でミニライブ 正に雨ニモマケズの「風の又三郎マラソン大会」

 8月23日(月)木細工自治会館に埼玉大学有機農業研究会が昨年に引き続き、本城昇名誉教授を中心とする11名の皆さんが訪れ、午前中は人首町の丘の上にある段長根、人首文庫、小川未明の碑を巡り人首町を散策し、木細工に。自治会館では木細工村おこし会の菊池春男さん達が作ったヤマメの塩焼き付の古代米のお弁当をご馳走になり、交流会を開きました。この研究会は「農的暮らし」や「農的地域起し」等を探求する目的で発足したとのこと。何事にも一生懸命な集団である。

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種山ヶ原で草を刈った思い出

語り手 奥州市江刺区米里字中沢  浅倉 芳吉 氏(1922年生まれ)

 当時、種山ヶ原は一面の草原で、春になれば野焼きが一斉に行われ、手入れが行き届き、草履を履いてどこまでも行けるような美しい野原が広がっていた。晴れた日には早池峰山、 岩手山、駒ケ岳、須川岳(栗駒山)、室根山、五葉山と展望が素晴らしい。
 毎年、9月1日は草刈りの鎌明きで、その日は朝暗いうちから準備して馬2~3頭を引き、いつもの草刈り場に向った。朝夕出入りには家内総出で道中安全を祈りながら手伝った。なるべく人手は多い方がよいので、馬のいない家の人を頼んだり、若い嫁さんも無理して乳呑み児を置いて出かけたこともある。先頭の親馬の荷鞍に乗り、草を束ねる縄を綯いながら行ったものだ。
 4~5日は泊りがけになるので、簡単な小屋を組み、一心に草を刈り、広げては干し、広げては干したが、丁度台風の時期に重なるので雨や霧が非常に心配であった。
 朝はどの小屋からも炊事の煙が細く立ち昇り、仁徳天皇の故事が偲ばれた。当時、草丈は短く、鎌砥ぎには苦労した。一日中腰を曲げて鎌を振るった。乾草が出来れば、束ねて馬に積んで家に運び、また翌日も繰り返した。
 家までは片道7kmで2時間を要した。夕食後は翌日使用の馬沓を作った。当時は時計を持っている人もいないので、午後は太陽の傾きを見て判断し、行動した。
 親馬と、生まれて6ケ月位のまだたどたどしい仔馬も一緒に連れて行くので、道の悪い所を行くのは大変であった。種山の乾草は良質で馬の飼養には最適であった。
 私が兵隊に行く前の昭和14年までは、毎年親父と草刈りに行ったものだ。

 このような草刈りは、おそらく藩政時代から明治、大正、昭和と続いて行われていたと思う。昭和15年頃からは村営放牧地となり、その後だんだん山の手入れも行われなくなり、種山ヶ原の様子はすっかり変わってしまった。昔、沼辺の殿様が鴨狩をしたという大きい溜池があって、どんな日照りの時も水が枯れることが無いといわれていたが、今は土手が少し残っているだけである。
 宮沢賢治先生の詩の中に、「種山ヶ原の 雲の中で刈った草は どごさが置いだが 忘れだ 雨ぁふる」とあるが、まさに当時の実感である。

平成19年12月3日記録
聞き手 利府 眞三 氏